【ポーランド大統領選挙】アメリカとユダヤとハーメルンの笛吹き男と

先週日曜の大統領選挙、この日は、連日、鉄砲水のような雨が降るポーランドの6月らしからぬ日々にあって久方ぶりの晴天に恵まれた。

投票率も64.3%に達し、国民の大きな関心を集めた今回の選挙だったが、選挙の隠れた争点は、アメリカとユダヤだった。

 

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筆者が住むワルシャワ市プラガ南区の高校兼専門学校の建物に設けられた投票所。外まで行列となっている。この日は列に並んでいる間、熱中症で倒れる老人もポーランド全土で何人かいたという

ここに一冊の本がある。『実写1955年体制』、東京新聞中日新聞論説委員を長年務め、政界通として知られた宇治敏彦氏の遺著となった作品だ。これを読むと、戦後、日本の首相たちが、いかに米国大統領と対等な関係を築く事に腐心してきたかが痛いほど伝わってくる。

岸信介は、日米安全保障条約の改定交渉のための訪米で、アイゼンハウアーとのゴルフに臨み、日本の恥とならないよう、第一打を那須与一の故事にあやかり、「八百万の神ご照覧あれ」と心で祈りながら打ったという。鈴木善幸は、レーガンとの会談を前にして、先輩格に当たる池田隼人が訪米(ケネディとの会談)前に言い聞かせていたとされる、「山よりでかいイノシシは出ない」という言葉を何度も心の中で反復し、その緊張の場に臨んだと伝えられる(同書262ページ)。

筆者がふと、この一節を思い出したのは、現職大統領のドゥダが選挙4日目の先月24日、トランプの招聘に応じて、コロナ騒ぎが始まって以来、初の国賓としてワシントンを訪問した時だった。ワシントンでドゥダは、米国との軍事同盟の強化、米国製の原子炉の輸入について協議した。いわば、選挙前に次期大統領として、アメリカの「お墨付き」を貰いに行った旅だったと言える。これに対して、野党候補のトシャスコフスキは、直ちに、「ドゥダが米国で核兵器ポーランド持ち込みについて話をしたのなら、その事実を明らかにすべきだ」とツイートした。このあたりの感覚も、かつて、日本社会党日本共産党が、核兵器反対、核の持ち込み反対を声高に叫んでいた80年代までの日本の姿とダブって見える。

 日本が、曲がりなりにも米国と肩を並べられるようになったのは、「ロン・ヤス関係」と言われた中曽根康弘の出現を待たねばならなかった。中曽根政権が退陣したのは1987年、まさに日本資本主義が世界を席巻するかに見えた時だった。先日、トランプはメルケルと事前交渉なく、ドイツに駐留する米国軍人の数を1万人削減すると発表した。これから、米国の駐欧州軍の主力は徐々にポーランドをはじめとする中欧に移ってくる。ポーランドの対米国外交における地位も徐々に向上していくだろう。いつの日か、ポーランドが十分な国力を付け、米国と対等に並べるようになる日は来るのだろうか。

 

ワルシャワで一番大きなショッピングモールとして知られるアルカディアの近くに忘れられたかのように佇むワルシャワ・グダンスク駅。この駅から1968年、多数のユダヤポーランド市民が「米国・イスラエルの協力者」の汚名を着せられて片道パスポートで強制出国させられた。そのグダンスク駅からさらに街の中心の方に向かっていくと、ワルシャワ蜂起博物館がある。いま、博物館の周りには高級コンドミアムが次々と建ち始めている。このあたりの土地は戦中、ゲットーがあった場所で、もともとユダヤ人の所有が多かった。それが、ユダヤポーランド人が親類縁者まで悉く殺され、戦争が終わってみると、街の中心の一等地に主の無い土地が多く残されることとなった。こうして、主なき土地は、市が接収し、今に至る。社会主義体制が崩壊し、戦前の所有者に返された土地や不動産もあるが、旧ユダヤ不動産の多くは、いくら探してもかつての所有者に繋がる縁者が出てこない。

以前、本ブログでも書いたが、米下院は2018年、「今日まで補償を受けていない生存者の正義の法律」(Justice for Uncompensated Survivors Today – JUST法)を制定し、戦前、ユダヤ人の手にあった資産から得た収益は、ユダヤ団体を通じて、ホロコーストの生存者の補償、ホロコーストを記憶するための教育目的に充てられるべきだとする法律を全世界をそのカバー範囲として可決した。この法律ができたことにより、旧ユダヤ資産の上に建つ高級コンドミニアムやオフィス物件については、米国がポーランドでその司法権を行使できる可能性は極めてゼロに近いものの、微妙な立場に置かれることとなった。

6月16日、政権与党のプロパガンダ放送局となったポーランド国営テレビは、「トシャスコフスキ候補が大統領になった場合、毎月子供一人につき500ズロチ払われている子供手当を全廃し、ユダヤ団体への補償に回す可能性がある。こうしてポーランドが失う金額は2兆ズロチ(約60兆円)に達する」と述べた。

これに対し、英語、ロシア語など数か国語に堪能な、トシャスコフスキは英語で記者の質問に応じ、「このようなデリケートな問題を選挙戦と絡めて話題に出すこと自体が、現政権の問題を示している」と発言した。彼がその発言の場に選んだのは、旧ゲットーで焼け残ったレンガ倉庫街の前だった。いま、ここには洒落た飲食店やショップが多く入っている。

 先日、知人と会った帰り、車でたまたまグダンスク駅の隣を通りかかった。1968年のユダヤ人追放(「3月事件」と呼ばれる)は、確かに当時の共産党内での政争に端を発した、許しがたい人権蹂躙ではあった。しかし、「いや待てよ、でも、事実として彼らの多くは当時、社会主義陣営と敵対していた資本主義陣営にあった米国やイスラエルに親戚が居り、いわば、英語圏ともつながっていたわけで、共産党が主張していたように、本当はその中にはスパイもいたのではないか。。。」という考えが脳裏をかすめた。ポーランドに住むと、ユダヤ問題から離れることは出来ない。否、ユダヤが「問題」として「反復される」こと自体が問題だと思うのだが、そのたびに、自分自身もこの問題と向き合わざるをえない。この堂々巡りの思考の中に、砂利砂利した嫌な感覚だけが残った。

 

最後に、今回の第一回大統領選挙で7%弱の票を獲得したのは、その夫人ともに急進的なカトリック右派の民族主義者として名をはせるボサクだった。ボサクという人は、1982年生まれの38歳で、十代から民族主義政党に属し、複数の一流大学の複数の学部を転々とし、そのいずれも卒業しなかった。こう見ると、その経歴は2017年の総選挙で極右政党と連立を組む事を厭わなかったオーストリアのクルツ現首相のそれとも重なる(現在では、クルツ首相の率いる「国民党」は、極右との連立を解消し、「緑の党」との連立を選択している)。そのオーストリアの首都ウィーンの北には、ヒトラー一揆をおこしたミュンヘンが控えている。

さて、ボサクが台頭してきた背景の一つとして、カトリック右派の現政権党「法と正義」の影響を排除することは出来ないだろう。「法と正義」が政権に就いたことにより、自分たちよりもさらに過激な右派政党という「鬼っ子」が育まれる事となった。ミュンヘンのさらに北のワルシャワには、将来、極右政権が誕生するのだろうか。

池田隼人は、ワシントンには山より大きなイノシシはいないと思ったようだが、ワルシャワでは、山より大きなイノシシが出るのだろうか。。。