10月24日に住宅建設大手ドム・デヴロップメント(Dom Development)社がワルシャワ証券取引所に上場、一株85ズウォティ(1ズウォティ=39円)の初値に対して約40%高の121ズウォティの終値を付けて初日の取引を終えた。

投資家の中には、銀行その他からカネを借りて、同社株の購入に踏み切ったものも多かった模様だ。ワルシャワはいまや空前の不動産ブーム、ブームを下支えしているのが、体制転換から15年余を経て、ようやく衣と食から始まって、身の回りの家電製品にもほぼ充足し、中古車ではあっても自家用車を手に入れた普通の市民層だ。
一流大卒で外国語に堪能な人材の手取り初任給が3000ズウォティ弱くらい、外資系の工場で働く一般ワーカーの手取り給が1500ズウォティ強くらいと言われている中、夫婦共働きで何とか3000ズウォティ以上の賃金を稼ぎ出す世帯の夢は、小さいながらも「自分たちの城」を次々と建設されていく高層マンションの中に購入することだ。

たとえば、子供一人で月収が3500ズウォティの夫婦の場合、34万ズウォティ(1330万円)相当の30年住宅ローンを組んだ場合、月々のローン返済額は月収の半分にも達してしまう。しかし、ポーランド経済は2010年頃までの中期予測では、年率4〜5%ほどの高い巡航速度を保ちながら推移するというのが大方の見方であり、それに伴って所得水準の向上も期待できることから、住宅ローンを扱う銀行側の鼻息も荒くなっている。一例を挙げれば、ライファイゼン銀では、2500ズウォティの手取り賃金があれば、18万ズウォティまでの20年ローンを組むことが可能だ。他の中小銀行でも、2500ズウォティの手取り賃金の有無が住宅ローンを組めるかどうかの境目となっている。
2001年には単年でわずか53億ズウォティを計上したに過ぎなかった住宅ローン貸付も、2005年(単年)には243億ズウォティに達し、2006年に至っては、8月末時点ですでに05年実績を達成し、年末までには350−370億ズウォティにも達する勢いだ(ニューズウィーク誌10月15日号)。

金融コンサル大手のXelion社のピョートル・シュレツによれば、これでも、民間銀行部門の要注意先債権残高に占める住宅ローンのシェアは2%ほどであると見られており、当面の間は、所得水準および不動産価格の順調な伸びに支えられて、銀行間の住宅ローン獲得競争が激化する見通しだという。
すでに一部の銀行では、40年ローン、45年ローンといった超長期ローンの発売が開始されており、銀行によっては、抵当不動産価格の110%までのローンを供与するというところもあるという。ちなみに、2006年10月現在の大手銀行の住宅ローン金利は、以下のようになっている。

BPH銀: 4.86〜5.36%(PLN), 2.86〜3.36%(CHF)
シティバンク: 4.92〜5.604%
ING銀: WIBOR 6M +0.9〜2.5%
ミレニウム銀: 4.72〜5.47%(PLN), 2.31〜3.41%(CHF)
PKO銀: WIBOR 3M + マージン(PLN), LIBOR 3M + マージン(CHF)
Pekao銀: WIBOR 3M + 0.5〜1.5%

上記で、PLNはポーランドズウォティ、CHFはスイスフラン(CHはスイスの国番号、スイスの正式名称がラテン語でHelvetiaであるのに対して、Helvetiaのドイツ語正書法による表記がChelvetiaとなる。したがって、スイスフランは「ヘルヴェティア・フラン」ということになる)を現しており、ポーランドでも金利が安く、為替変動も少ないスイスフラン建ての長期ローンは大変人気がある。ポーランド政策金利が4.00%であることを考え合わせると、各行とも低いマージン率での貸し出しにまい進していると見ることができるだろう。

さて、気になる不動産価格だが、ワルシャワでは中心部のモコトゥフ地区にある新築一級マンションで144万ズウォティ(95平米)、1平米当たり1万5000ズウォティほど、同様にミロンガ(Milonga)集合住宅では1平米当たり9000〜1万9000ズウォティほど、これのあたりがアッパーエンドの物件価格となる。
もう少し価格が落ちる物件となると、例えば、ワルシャワ北部のビャウォレンカ(Bialoreka)にある新築マンションの場合、3部屋(65−69平米)で1平米当たり4750〜5800ズウォティ、4部屋(87.6〜95平米)で1平米当たり4500〜4650ズウォティという感じである。

やはり、新築マンションを購入するには最低でも千数百万円からの資金が必要となるようだ。物価水準が日本の1/2から1/3ほどの水準にあるポーランドで、この金額がいかに大きいものであるかは、容易に想像が付くであろう。
郊外の新築マンションに30年ローンを組んで無理をしてでも入りたい、そんな社会の空気が、やはり自分には昭和40年代のみんなが「小さな夢」を持っていた頃の日本の姿と重なるように思えてやまないのである。