本紙では今秋に控えたポーランド大統領選を巡る駆け引きを積極的に発信していきたい。3月18日付のガゼタ・ヴィボルチャ紙には「二人のアンナ、ただし、大統領のアンナは一人だけ」(Anny dwie, prezydentowa jedna)と題し

た特集記事を組んで、現与党である市民プラットフォーム(PO)の大統領候補の座をめぐって争っている二人の有力政治家、シコルスキ外相とコモロフスキ下院議長の夫々の妻にインタビューを行っている。実は、両名とも妻の名がAnnaであり上記のようなルビとなった。しかし、際立っているのは、シコルスキ外相の妻が「シコルスキ夫人」としてではなく、「アンネ・アップルバウム」(英語読みではアン・アプルボーム)と結婚前の姓名で紹介されていることだ。記事では、アップルバウム氏が自らの生い立ちに付いて語っている。早速、試訳文で追ってみよう。

Anne Applebaum:
私の家族はワシントンに在住しています。父は弁護士、母はワシントンのコンテンポラリーアートの画廊で働いています。彼らは(私と違って)政治にもジャーナリズムにも一切関係がありません。私には2人の妹がいます。妹のうち1人はカリフォルニアで弁護士となり、もう一人は最近までフロリダで教育問題関連の研究所で勤務していました。
私はイェール大学の歴史学部(ロシア史を主に専攻)と文学部(仏文学とロシア文学)を卒業しました。両親は私がロシア語を勉強する事に反対でした。彼らはロシアは外国人に対して閉ざされた国だと考えていたのです。しかし、私は後に1984年の夏休みの2ヶ月間、ソ連に行く事になります。ソ連へは学生グループの一員として訪問し、レニングラード(現サンクト・ペテルブルク)で外国人用の学生寮に入りました。日中は授業があり、放課後には自由に街を歩くことが出来ました。とにかく、誰か現地人と知り合いになりたかったのです。レニングラードは灰色の壁と街路に支配され、緑が少なくて、朽ち果てた石造建築が多い印象でした。ロシア人は外国人を怖がっていました。街中で道を尋ねても、すぐに逃げ出されてしまいました。ところで、私は外国語の飲み込みが早く、ロシア語で当時すでに会話をしていました。尤も、「文法的に超完璧」

(superdobrze gramatycznie: ポーランド語でも、日本語の「超〜」に当たるsuper=スーペルという接頭辞が頻繁に用いられる、激安=supertanioなど。)

という訳には行きませんでしたが。結局、私とロシア語で会話してくれたのはヘビメタ・グループのギタリスト、画家、イスラエルに移住したがっているユダヤ人といった社会の周縁部にいる人たちでした。あるユダヤカップルなど結婚宮殿

社会主義国特有の役場に付属している結婚式場のこと。宗教施設で行う結婚式ではなく、結婚宮殿で行う結婚が奨励された。因みに、ポーランドでは現在でも、民法上の結婚のみを希望する場合には、役場付属の結婚宮殿で役場職員立会いの下で式を挙げることが出来る。

での結婚式に私を招待してくれたものです。レニングラードから(西欧までは)列車で戻りました。途中、ウクライナリヴィウ(露:リヴォフ、波:ルヴフ)で列車が停車してしまい、外に出ることが許されました。そこで私はウィチャコフスキ墓地(Cmentarz Lyczakowski)を訪れました。緑が多く、ポーランド人、ドイツ人、ロシア人、ウクライナ人の墓があり、各国語での墓標があるのが印象的でした。私のように、(米国という)安定した国から来た者にとっては、ポーランドで生まれた人がその居住地を変えなかったにも関わらず、後にソ連に住み、更に(ソ連崩壊後には)独立したウクライナベラルーシの住民となっていったことは正に驚愕すべきことなのです。
さて、私の父方の曽祖父はコブリニィ(Kobryn)というロシア帝国領からポーランド領、現在はベラルーシ領となっている町の出です。

ざっくり言って、ベラルーシウクライナの西半分は伝統的にはポーランド領に属し、ポーランド語では、クレースィ(Kresy)=辺境地帯と呼ばれている。ポーランド人がクレースィという単語を聞くと、なにやら失われた過去への郷愁を感じるようだ。小生が勤務するワルシャワ中心部にも「クレーシィ料理」のレストランがあり、伝統的なポーランド田舎料理を堪能することが出来る。http://www.tawernatabaka.pl/

曽祖父はアレクサンドル3世時代の戦争に明け暮れたロシアから逃げ出した若者の集団のうちの一人で、当時のプロシアから船出し、ニューヨークのエリス島を経て、アラバマへと移住しました。アラバマでは小さな靴屋を営んでいたようです。
母方の家族は19世紀の始めにフランスから米国へと渡り、ニューオーリンズに住み着きました。先祖のうちには南北戦争に従軍した者もあったとの事です。
さて、ソ連から帰国後、私はイェールを卒業し、マーシャル奨学金を得て、ロンドン経済大学(LSE)とオックスフォード大学セント・アンソニー校に学びました。その頃はまだ夫であるラデック(シコルスキ外相)とは個人的には知り合っていませんでした。ただ、彼がオックスフォード大でOxford Union Societyに所属し、ポーランド問題のディスカッションを主催していたことは知っていました。後に、古い写真を整理していたところ、偶然にも、私たちが同じ討論会の場に居合わせていたことを知り、大変驚きました。私は、当時付き合っていた別の男性とその場にいたようです。彼は、米国人で、今では米財務省で勤務しているようです。
英国では図書館に篭りっきりで東欧問題に関するドクター論文を執筆していましたが、すぐに飽きてしまい、また世界を見たいと思うようになりました。と言ってもお金のあてがあった訳ではなく、どこかの雑誌に寄稿してお金を稼ぎながら外国暮らしをしようと企てました。早速、ロンドンの複数の新聞社に電話したところ、記事を欲しがったところもありました。当時、オックスフォードの友人だったTimothy Garton Ash等のグループはポーランドの反体制派へと送金をしており、ポーランドチェコスロヴァキアで取材が出来る人材を募集していました。私はポーランド派遣を希望し、複数の活動家へ手渡す資金として500ドルを渡されました。それは当時、大金でした。先ずグダニスクへ行き、ヴロツワフワルシャワと回りました。ソ連ポーランドとの間のコントラストは歴然としており、モスクワでは後年、ペレストロイカが開始された後になってさえもワルシャワほど開放的でなく、人々もよそ者に対して親切ではありませんでした。ポーランドでは当時、連帯に付いても、共産党の政治家に付いても、誰もが恐れることなく話をしていました。ポーランドの反体制派に付いての記事をいくつか書きましたが、最も重要であったのは、ヴロツワフの反体制グループ、「オレンジ色の異論派」(Pomaranczowa Alternative)に付いての記事で、これは英国のエコノミスト誌に掲載されました。こうして私はエコノミスト誌の特派員となったのです。両親は私がオックスフォードでの勉学を放棄して特派員になることには猛反対でした。両親にとってポーランドのイメージとは、政治的に危険で、ストライキ、警察、共産主義、街頭での騒動にまみれた国であるとの認識でした。それは1988年の事でした。私はポーランドには1年、長くても2年間いるだけだと両親に話したものです。それが、結局、ずっと居つく事になってしまいました。食べ物にはいつも困っていました。と言うのも、私は月に100ドルの稿料のみで暮らしていた事に加え、そもそも行列に並ぶ時間がなかったので食料を買えなかったのです。朝にはトウモロコシで出来たクラッカーを食べ、その他には乾パンを食べていました。毎日、反体制派が出していたマゾフシェ週報(Tygodnik Mazowsze)を求めて友人の間を奔走していました。それで私は何が起こっているか知ったのです。聖マルチン協会へと出かけて行き、反体制派の大物だったヴイェツ、ミフニク、クーロン、モチュルスキ等にインタビューをしました。ワレサとも会談を行う機会がありました。

始めのころは通訳を同伴しましたが、後には、ロシア語とポーランド語のごたまぜで自らインタビューを行うようになりました。私はポーランド語を3ヶ月間で習得してしまいました。新聞を読む事によって言語を学んだため、経済や農業問題についての話が出来たにも拘らず、「石鹸」という単語を知らない有様でしたが。(共産党のスポークスマンとして話術に長けていた)イェジ・ウルバンの会見にももちろん出かけて行きました。時の首相であったミェチスワフ・ラコフスキとも会見を行いましたが、彼は、ポーランドにも民主主義の時代が訪れるが、それは、連帯のない民主主義であり、複数政党制のない民主主義になるだろうと語りました。(私の解釈に拠れば)したがって、当時既に現在ロシアで見られるような「制御」され、どこか「操作」された民主主義という考え方があった事になります。その後、戦後初の制限付き自由選挙がありました。投票当日、私はある連帯活動家にインタビューしていましたが、(反体制派の)誰もが選挙に負けるのではないかと気を揉んでいました。共産党は社会の中で受け入れられており、連帯には目がないと見られていたのです。ポーランドの将来は大きな混沌の中にありました。今のポーランドを見ていると、最初からこの国には民主主義が根付き、独立を回復することが自明であったかのごとく思われます。しかし、当時は何もかもが予測不能でした。選挙の結果は驚くべきものでした。連帯が勝ち、党が負けたのです。気付いてみるとポーランドは世界中の関心の的となっていました。ワルシャワへとジャーナリストの大群と共産主義の崩壊の瞬間を見たいという旅行者が大挙してやって来ました。

最近、ワシントンに滞在していた折、私がワシントン・ポスト紙に投稿した記事が元でヴァージニア州厚生大臣に電話をすることがありました。彼は電話口で言ったものです、「アンナ・アップルバウム?お互いに知り合いですね。」私は彼のことを何一つ覚えていませんでした。彼は1989年にワルシャワへとやって来て、旧市街広場にあった私の下宿の床で泊まったことがあったと言うのです。あの時は、人ごみの中で皆が眠ったものです。私もどこへでも出かけていって、知り合いの知り合いのところで休みました。ホテルなんてものはなく、あってもとても高く付きました。私のワルシャワの下宿は世界に知れ渡った投宿先となったのです。中二階にベットを持ち込んで急ごしらえの宿泊所としましたが足りず、床には寝袋に寝たり、ぼろきれを敷いただけの上に身を休める旅行者で溢れ返りました。その中にラデック(シコルスキ外相)も居ました。1989年8月のことでしたね。

(その後ラデックと会ったのは)コール首相のワルシャワ訪問に合わせて、ヴィクトリアホテル内にプレスセンターが設置された時でした。ラデックはサンデー・テレグラフ紙の記者としてその場に居ました。ちょうどその夜、ベルリンの壁が崩壊し、コールは急遽、ベルリンへと戻っていきました。ワルシャワに残っている意味はなく、世界中のプレスがベルリンを目指したのと同様、私もラデックとダイハツ車に乗ってベルリンへと向かいました。全く狂喜のときでした。毎日、4本から5本の記事を米国の新聞社に書きまくりました。ある新聞社に1本の記事を書くと、少し内容を修正して2本目の記事をポーランドのインタープレス通信に持って行き、CBSラジオに電話、その後はオーストラリアのラジオ局に電話といった具合でした。私の記事が毎日、世界中の新聞の1面に掲載されたのです!ラデックの記事も同様でした。その年、彼はアフガニスタンアンゴラへ派遣され、クリスマスには(ルーマニアの)ティミショアラからチャウシェスクの最期について報道しました。私は自分の記事がこれからも連日のように世界中の紙面を飾るのだと思いましたが、その後歴史の振り子は止まってしまいました。もうポーランドが世界の注目の的となる事はないでしょう。あのころの雰囲気を懐かしく思うことも少しあります。あのころは本当にすばらしかった。しかし、もうあのころのように働くことも出来ないでしょう。

今でも著述は続けていますし、(ソ連強制収容所を題材とした)「グラーグ」ではピュリッツァー賞を受賞しました。ワシントン・ポスト紙には週一回のペースでエッセイを投稿しています。直近の4年間ではスターリニズムに付いての著作を執筆中です。第二次大戦終結からスターリンの死(1945−1953)までの時期の歴史に付いて、ワルシャワブダペスト、ベルリンから資料を取り寄せています。ドイツ人が残した資料は最も正確ですが、マルクシズムの隠語に満ちていて、翻訳にかけても理解に苦しむ場面が多々あります。他には、米国人共産主義者に付いての短編も最近出版しました。彼等の多くは直接あるいは間接的にソ連のスパイとしても活動をしていました(以上、試訳)。

さて、アン・アプルボームの著作は日本語でも、2006年に白水社より『グラーグ:ソ連集中収容所の歴史』(川上訳、651ページ)として出版されている(以下は、代表的な書評)。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/jaces/V46-2_05.pdf
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2006/10/20061015ddm015070148000c.html
http://www.hakusuisha.co.jp/news/2008/10/post_115.html

他にも、アプルボームを含む戦後中欧の知識人(主として経済学者)の群像に付いて触れた興味深い論考に、佐藤経明の論文『ブルス:「現存した社会主義」経済体制批判における「修正主義』がある。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/jaces/V46-2_02.pdf

実は、アプルボームの自叙伝的なインタビューに加えて、コモロフスキ下院議長の妻アンナのインタビューも訳出しようと思ったのだが、いかんせん、内容が退屈すぎて手が回らなかった。アンナ・コモロフスキ氏は政治家の妻により相応しいと言うのか、良い意味でも悪い意味でも夫を立てる地味だが芯の通った女性といった風情がある。
各種の世論調査、下馬評でも現時点では、与党POの大統領候補としては、コモロフスキ氏が有利な展開を見せている。
しかし、自分個人としては、ポーランドとは縁もゆかりもなかった一米国人女性がひょっこりとこの北の果ての国へとやって来て、外務大臣の妻になってしまったという「真実は小説より奇なり」を地で行くような物語のほうに惹かれてしまうのだが、、、

余談だが、ジェイムズ・A・ミッチェナーの名著、『ポーランド』(上下2巻、文藝春秋、1989年刊)にもポーランド貴族に嫁いでいった米国人女性が歴史の波に翻弄される姿が描かれている。

コモロフスキ下院議長についても、その人となりや豊かな教養に付いては定評がある。本紙でも外相にばかり肩入れしないで、コモロフスキ研究もテーマとして取り上げていきたい。