2010年4月10日ワルシャワ時間午前8時56分、ロシア領スモレンスク近郊でカチンスキ大統領ら一行を乗せた政府専用機が墜落、大統領夫妻を始めとする96人の乗員全員の死亡が確認された。

大統領一行等は同日予定されていたカティンの森事件(第二次大戦中の1940年、スターリンの直接指示、KGBの全身であった内務人民委員会=NKVDの実行により4400名余のポーランド人戦争捕虜および文民が殺害された事件)70周年記念式典に参加する予定であった。式典には、プーチン首相も参加することとなっており、今年5月に予定されているモスクワでの対独戦勝記念日の式典への参加要請をカチンスキ大統領が受けたこととも併せて、ポーランド・ロシア関係にもようやく改善の兆しが見えて来た事を象徴する日となるはずだった。

今回の飛行機事故で亡くなったのは、カチンスキ大統領夫妻、イェジ・シマイジンスキ(Jerzy Szmajdzinski)下院副議長=秋の大統領候補(SLD推薦)、スワヴォミル・スクシペク(Slawomir Skrzypek)中銀総裁、フランチシェク・ゴンゴル(Franciszek Gagor)ポーランド軍参謀本部長(将軍)、ヤヌシ・コハノフスキ(Janusz Kochanowski)人権擁護官、ヤヌシ・クルティカ(Janusz Kurtyka)国民記憶院長官、アレクサンデル・シチグウォ(Aleksander Szczyglo)国家公安局長などの国家の要職にある人物、プシェミスワフ・ゴシェフスキ(Przemyslaw Gosiewski)下院議員(法と正義)、マチェイ・プワジンスキ下院議員(無所属)などの大物政治家、カチンの森事件の遺族などが含まれ、ポーランドにとって、国家元首を含む有力政治家を一度に失うという未曾有の事態となった。

今回の事故の原因としては、濃霧に見舞われていたスモレンスク空港への強行着陸の失敗が指摘されており、純粋にテクニカルな問題であった。
これを受けて、ポーランド憲法の規定に従い、下院議長が自動的に大統領職を引き継ぐこととなり、秋の大統領選に現政権党の市民プラットフォーム(PO)から候補指名を受けているブロニスワフ・コモロフスキ(Bronislaw Komorowski)下院議長がすでに大統領職に就任している。憲法の規定では、今後、14日以内に下院議長により大統領選挙の公示が行われ、その後60日以内に選挙が開かれることになっているので、6月中旬には前倒しで大統領選が行われることとなる。それにしても、今回の事故で最大野党の法と正義(PiS)、同じく野党の左翼民主同盟(SLD)の大統領候補が同時に斃れる結果となり、仮にコモロフスキが大統領に就任するとしても、その選出を巡っては正当性(レジティマシー)の欠如が伴っていたかのような印象を残すかもしれない。

さて、今回の大統領の突然の逝去について友人と議論をしていたところ、「これで3人になった」と言う。つまり、これで3人のポーランド大統領経験者がロシア領内(ソ連含む)で亡くなったことになると言うのである。一人目は、1956年3月12日、モスクワで謎の死を遂げたボレスワフ・ビェルト(Boleslaw Bierut)大統領、二人目と三人目は、共に今回の飛行機事故で亡くなったリシャルド・カチョロフスキ(Ryszard Kaczorowski)前ロンドン亡命政権大統領およびカチンスキ現大統領ということになる。

ビェルト大統領は、1947年〜1952年までポーランド人民共和国の初代大統領を務め、その後は1952年〜1954年まで閣僚会議議長として、最高権力者の座にあった人物だ。彼は前述のKGBの前身、NKVDが放ったスパイでもあり、戦後の東欧に多く現れた「小スターリン」の一人として個人崇拝に基づく恐怖政治を揮っていた。そんな彼がモスクワで客死(公式発表では心臓発作)したのは、フルシチョフによるスターリン批判がなされた第20回ソ連共産党党大会(56年2月14〜25日)終了の僅か2週間後であり、当時から、スターリン主義者として名を馳せていたビェルトを厄介払いする必要から毒殺されたのではないかという説が囁かれていた。事実、ビェルトの死から程なくして「偉大な三雄」(wielka trojka)と呼ばれていた彼の同志、ヒラリー・ミンツ(Hilaty Minc)とヤクブ・ベルマン(Jakub Berman;2010年3月13日付け本ブログでも紹介)が党から追放され、ポーランド人民共和国はヴラディスワフ・ゴムウカ(Wladyslaw Gomulka)党第一書記による新路線によって牽引されることとなる。
当時、ポーランドでは、ビェルトの死に際して、「毛皮を着て行って、箱に入って帰ってきた」(ポイェーハウ・ヴ・フテールクゥ・ア・ヴルーチウ・ヴ・プデーウクゥ)、「サロン付きお召し列車で行って、トネリコの木(棺おけの隠語)で帰ってきた」(ポイェーハウ・ヴ・サローンツェ・ア・ヴルーチウ・ヴ・イェスィオーンツェ)などの政治ジョークが人口に膾炙したと言う。

二人目のカチャロフスキ大統領は、第二次大戦中の独ソによるポーランド分割後に英国にわたったロンドン亡命政府の最後の大統領(在1989年7月19日〜1990年12月22日)を務めた人物で、政権亡命時にロンドンへと一緒に渡っていたポーランド国璽社会主義政権の崩壊後、初めて民主的に選ばれた大統領であったワレサに手渡すことにより、戦後も長らく形式上だけ存続していた「ロンドン亡命政府」の幕引きを行った人物である。彼は1940年にNKVDに逮捕され、死刑判決を受けるものの、10年の強制労働に減刑、更には特赦を受けてイタリア戦線の激戦地であったモンテカシノの戦いなどに連合軍兵士として参加、戦後は英国へと亡命し、当地でのボーイスカウト活動の振興に功績があった。彼は、あくまでもロンドン亡命政権という云わば仲間内の社交クラブのような場で、名誉職以上の実質的意味を持たない「大統領」に指名されただけの人物であったにも関わらず、大統領辞任後もポーランド政府よりロンドンの事務所賃貸料の支払を受け、ポーランド入国時には政府要人警備隊(BOR)のエスコートを享受するなど、何とも不思議な「元大統領」でもあった。

三人目のカチンスキ大統領は、ワルシャワ大学法・行政学部を卒業後、グダニスク大学で労働法の講義を長く担当する傍ら、筋金入りの反体制派として、労働者擁護委員会(KOR)やグダニスク造船所での工場間ストライキ委員会(MKS)、連帯などで活動後、体制転換後には政治家に転身、大統領に就任してからは、グルジアウクライナ等の反ロシア的な新興国家を強力に支援する姿勢が注目されていた。

小生も今日はワルシャワ中心部、旧王宮から程近い大統領宮殿まで出向いて、バラの花を献花してきた。周囲はカチンスキ大統領夫妻の死を悼む人々で溢れかえっており、道路も一部交通止めになり、あたかも歩行者天国のような様相を呈していた。その後、19時からはワルシャワ蜂起像前の、軍人に捧げられたカトリック教会でのミサに参加したのだが、外の道路まで人で埋まり、やはり、何か国家の大事があると、とにかく教会に行ってみるというポーランド人の行動様式はまったく変わっていないという事を再確認したのだった。

カチンスキ大統領に関しては、本ブログでも散々、批判してきた。
彼はポーランド国家がたどった苦難の歴史について、国民に対して思い起こさせようとする言動を良くする人物でもあった。
カチンスキ大統領に対する評価も、今後の歴史のうねりの中でその時々の時勢に合わせて刻々と変化して行く事だろう。

カティンの森という彼にとっても因果のある土地で最期を迎えられた大統領に心から哀悼の意を表明致します。