朝から陰鬱な気分である。先日、警察官との個人面接も済ませ、いよいよ、ヴィザ発給手続きの第二段階を済ませなければならない。

イミグレを出る頃には午後2時を回っていた。王宮(Zamek Krolewski)の傍で、異様な集団に出くわした。地元のボーイスカウト(harcerz)の青年たちが、社会主義時代のMILICJA(民警)の制服(mundur)に身を固めてたむろしている(民警とは社会主義にロシア語からポーランド語に移植された単語の一つで、体制転換後は、元のPolicja(警察)という言葉に戻っている)。
何事かと思えば、今日、12月13日は、1981年に戒厳令(stan wojenny)が施行された日だという。俄か作りのスクリーンには、戒厳令のさなか、若いデモ参加者が戦闘車両(woz bojowy)に轢き殺されるシーン、そして、その後の葬儀で、彼の恋人だろうか姉妹だろうか、若い女性が棺に泣き崩れる姿が映し出されている。
文化および国民遺産大臣(Minister Kultury i Dziedzictwa Narodowego)推薦の『MLODZI PAMIETAJA 13 XII』(若者は12月13日を忘れない)というパンフレットが配られていた。長くなるが、全文を引用する。
「何ヶ月間もの間、戒厳令施行の準備が行われていることは、秘密に付されていた。2月に国防相であったヴォイチェフ・ヤルゼルスキ将軍は首相となり、次いで、10月には、共産党第一書記に選出された。12月13日の戒厳令施行後には、これに国家救済軍事評議会(Wojskowa Rada Ocelania Narodowego)議長の称号が加わった。
全国で電話通信が妨害、国境は閉鎖、ほとんどの工場は武装解除され、午後10時から午前6時までの間は外出禁止(godzina milicyjna)が敷かれ、通行パス(przepustka)無しでの都市間移動は禁止となり、市民の自由、とりわけ、通信の秘密、住居の不可侵(nietykalnosc mieszkan)が制限された。同時に、全高等教育機関での授業は停止され、数千人が拘禁(internowanie)された。
全国の多くの地域でストライキと抗議活動が展開された。事態を沈静化する目的で約15万人の内務省特殊部隊、および、兵士が動員された。当時、存在していたおよそ7000社の企業のうち、199社ではストライキに入り、うち、40社では、武力による鎮圧が行われた。炭鉱での居座り(zdobywanie)行動に対して、民警が武器で以って鎮圧を図ったカトヴィツェ県では、最も広範な抗議運動が展開された。悲劇の舞台となったのはヴイェク炭鉱であり、9名の鉱夫が虐殺され、数十人が負傷した」。
全編に、社会主義時代における権力側による国民弾圧の事実が赤裸々に語られている。さらには、ここ数日間で戒厳令の評価を巡るシンポジウムが、いくつも計画されているという。出席者には、カジミェシ・ミハウ・ウヤズドフスキ文化および国民遺産大臣、ヤヌシ・クルプスキ国民記憶院(IPN: Instytut Pamieci Narodowej)副院長など現政権の要人も名を連ねている。
しかし、考えてみれば、今年は、戒厳令施行から14年目に当たり、大きな節目となる年ではない。パンフレットで主張されるヤルゼルスキ批判は、現右派(PiS)政権による前左派(SLD)政権批判(ヤルゼルスキは現在でも旧共産党の後身であるSLDの党員である)、また、炭鉱夫賛美の下りは、前政権が遅ればせながら着手しようとしていた炭鉱民営化に強く反対の立場をとっている現政権のスタンスを投影しているものとも読める。興味深いのは、一連の政治パフォーマンスに、ボーイ(ガール)スカウト連盟が積極的に関わっている点である。ポーランドでは、ボーイスカウトの社会的プレステージが高く、保守派層の子弟が多く入団している。とすると、一連の行事は、右派による若年支持層取り込みキャンペーンの一環であるかもしれない。
式典の運営者は、「市民の責任」(Odpowiedzialnosc Obywatelska)を名乗る団体である。ウォッチング・リストにまた新たな政治団体が加わった。