今日は少しポーランドの教育の話をしてみようと思う。6月27日付のガゼタ・ヴィボルチャ紙によれば、議会第一党のPiS(法と正義)が「教育基本法」の改正案を下院議長に提出した。

この箇所の原文は、

Wczoraj PiS zglosilo do laski marszalkowskiej wlasny projekt zmian w ustawie oswiatowej.

となる。ここで、laski(原形はlaska)という単語が使われているが、これは、本来、杖と言う意味である。直訳すると、「下院議長の玉杖の下に改正案を提起奉った」みたいな感じがして、ちょっと面白い。

ところで、laska(ラスカ)と言えば、若者言葉では、「スレンダーな女性」を指す言葉として定着している。
然る友人の非常に信憑性に乏しい「学説」によれば、もとはチェコ語にそんな意味があったらしい。ちなみに、laskaの派生語として、lachon(ラホン)なる新語もある。これは、もう下品な言葉で、「いい姐チャン」くらいの意味になる。2,3年くらい前に出現した言葉で、まだ市民権を得ている単語ではない。
さらに、わがワルシャワ経済大学内のみで通用すると思われる言葉として、lachonus vulgaris(ラホヌス・ヴルガリス)というのがある。これはインチキなラテン語で、「品の無いオンナ」という意味で男子学生の間でヒソヒソと使われている。

またまた、脱線をしてしまった。

さて、下院議長のラスカのもとに置かれている改正案の目玉となっているのは、

① 両親の財政苦のため保育園に行くことが出来ない3−5歳児に対して、週に数日間、数時間にわたって、保母と同年代の子供に接する機会を作ることを国家保証とする、
② 学校施設内をカメラ監視することを盛り込んだ別の改正条文案を削除すること、

の二点であると言う。
この②で述べた「カメラ監視案」は、連立政権を組んでいるLPR(ポーランド家族連盟)が提出したもので、ある調査によれば、中学生の2人に1人、小学生の4人に3人が、同級生から暴力を受けた経験があると回答しているポーランドにあっては、保護者のかなりの部分が賛成しているものである(ニューズウィーク6月25日号)。
個人的には、世界的に学校の荒廃化が進行する中で、学校のカメラ監視は非常に有効な手段だと感じているものだが、無論、PiSの議員たちのように、これを非人道的なやり方として反対する向きもあるだろう。
ここで私が問題だと感じているのは、PiSが連立相手であるLPRとの協議を行わずして、頭ごなしにいきなり別の改正案を提出している点である。
大統領のカチンスキは、決して他人を信用しない狡猾なタイプの男であるので、今回に限らず、多くの場面で友人や部下を裏切ってきた。いかにも、あの男らしい立ち回りだ。こうして、ポーランドの政治はさっぱり前へ進まない。

PiSとLPRが重箱の隅をつつくような空論を繰り広げている間にも、党首(ギェルティフ)自らが教育相を務めるLPRでは、更に過激な教育法の改正プランを次々に打ち上げている。

学校における「愛国教育」(nauki patriotyzmu)の導入、宗教(カトリックの教義)を大学入学試験の選択科目として認める、小学校の0年次を5歳から義務にする、教科書価格を大幅に引き下げる、等の措置である。民族主義政党としてのLPRの面目如何といった政策が目に付く。

この中で、学齢の引き下げ、教科書価格の引き下げは、急増する貧困層対策としても解釈でき、一見すると、歓迎すべきものであるかのようである。
ポーランドでは、貧困と飲酒による家庭崩壊から、4−5歳になっても100−200語しか単語を知らず、動詞の最低限の活用も出来ない子供が激増中であると言われており、学齢の引き下げは、教育格差の拡大を少しでも和らげる効果があると思われる。

しかし、LPRが進めようとしている教科書価格の引き下げ策には、強い警戒の目を向けておく必要がある。
ポーランドでは、教科書の購入は全て、親の自己負担となっており、中央統計局の推計によれば、4人に1人の親は、子供に教科書を全部買ってやれない状況にある(ニューズウィーク6月25日号)。
教科書の価格は、小学生で250ズウォティ(9250円)、中学生で300ズウォティ(11000円)、高校生では400ズウォティ(14800円)にも達しており、家計に占める食料費の割合が、未だに3割を占めているポーランドの平均的な家庭にとっては大きな負担となっている。

このような状況を緩和するため、LPRが提案しているスキームは、まず、学校が必要な教科書数を教育省に通達し、その数字に基づいて教育省が出版社に対して教科書価格の入札を行う。ここで入札に残った出版社は、郡庁に対して教科書を納入する。保護者は郡庁から、工場出荷価格にて教科書を購入し、入札価格と工場出荷価格との差額は国家補償とするというものである。
一見すると、非常に合理的で、国にカネさえあれば、うまくワークしそうなスキームに見えるが、LPRは、入札過程において、教科書の種類を3種類ほどに絞り込むことを画策していると言う。
これこそが、LPRの真の目的であり、教科書の数を制限し、国家入札制度を導入することで、教科書の内容を民族主義的な内容に書き換えさせることを狙っている可能性があると見られている。

思うに、時の政権の意向に沿った教科書だけが流通する国は、真の民主主義国家とは言えないのではなかろうか。
右寄りの教科書も左寄りの教科書も、市民社会が許す許容範囲において、共存すべきだ。

埋まらない教育格差、進行する学校崩壊、忍び寄る教育への国家管理の影、21世紀の入り口でポーランドの未来を担う子供たちをめぐる情勢は、決して楽観視を出来ない状況に置かれている。