第I部: コードネームは「ベアタ」

7月7日付けの日記でも書いたように、ポーランドでは、しばしば、政府関係者に対して、共産主義時代に秘密警察の一員(etatowy oficer)あるいはその秘密連絡員(TW: tajny wspolpracownik)であったかが裁判所で問われ、場合によっては政治生命を奪われることもある。


ギロフスカ元蔵相のケースでは、1980年代末期に、”Beata”(ベアタ)のコードネームで呼ばれた秘密連絡員であったのではないか、と取り正されている。
7月16日付ニューズウィークPL版によれば、ギロフスカは、ルブリン・カトリック大学(KUL)で教鞭をとり始めた頃から、現地の秘密警察隊員であり、米国人、英国人、オランダ人、ベルギー人、ルクセンブルク人の監視(inwigilacja)を担当していたヴィトルド・ヴィエチョルカ(Witold Wieczorka)の命を受けて、KULに客員として訪れていた西側研究者のスパイを行っていたという。


しかし、このくらいのスパイ行為ならば、共産主義時代に外国語を知っていた人間であれば誰でも普通にやっていたことである。それだけ、当時、東欧圏の秘密警察組織は巨大であった。日本人の商社マンでも1980年代の末期に至るまで、東欧出張をすれば、必ず1〜2名の監視が24時間体制で付いたし(とりわけ、東独とチェコスロヴァキアは監視が厳しかったといわれる)、西側の人間が現地人と結婚でもしようものなら、夫(妻)の出国ビザと引き換えに産業機密を含む情報の提供を求められるケースもあとを絶たなかった。


「ベアタ」の余罪は他にも出てくるかもしれないが、当時、彼女が住んでいたシフィドニクという小さな町では、彼女の元義兄が証言するように、「住民はみんな、誰が反体制派で、誰がスパイで、誰が秘密警察で働いていて、誰が学者かなんてことは互いに知っていたものさ」という日常があったこともまた事実であろう。


ギロフスカ元蔵相のルストラツェ裁判(共産主義時代に秘密警察の協力者であったかどうかを問う裁判のこと)は直に開始される予定であるが、おそらくは、大した事実も出ないまま無罪放免となると思われる。


妖怪コンビ、カチンスキ兄弟が大統領と首相を務め、副首相の1人は元犯罪者(レッペル)、もう1人は、秘密裏に若者の間でネオナチ集団を組織しているといわれる右翼(ギェルティフ)である現在のポーランド、これから、ますます、政治の奇形化が進行していくことだろう。


第II部: ポーランドのスパイ・リスト


ポーランドには、ナチス時代および共産主義時代に行われた権力側による犯罪の調査、資料の管理、資料の一般公開、犯罪者の告発等などを行う公的機関として国家記憶院(IPN: Instytut Pamieci Narodowej)が存在する(国家記憶院については、以下のサイトで日本語による詳細な紹介がなされている)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E8%A8%98%E9%8A%98%E9%99%A2

IPNには、共産主義政権崩壊後に、旧内務省、旧国軍国家保安部(Wojkowy Organ Bezpieczenstwa Panstwowa)、旧国立公文書館、裁判所、検察庁、刑務所などから押収された150万件もの文書が収集されていると言われている。ただし、当時の機密文書は、その50−60%が秘密警察(SB: Sluzba Bezpieczestwa)によって処分されたとされており、完全には残っていない資料も多く、更に、IPNの公式見解によれば、一部の文書はロシアに移送・保管されているとされる。


さて、これら機密文書のうち、現在でも、旧軍関係資料、「留保扱い」(zastrzegany)に付されている資料の閲覧は、IPN院長および国防大臣のみ許されている。その他の資料に関しては、情報公開・資料整理局(BUiAD: Biuro Udostepniania i Archiwizacji Danych)の整理番号(BUで始まる)が振られ、2004年11月から特別な許可を得た者が、研究目的に限って閲覧を許されるようになった。


ポーランドでは、ヴィルトステイン・リスト(Lista Wildsteina)と呼ばれる、約12万人分の元秘密警察関係者の名簿がインターネット上に流出している(うち、8万458名はギロフスカ同様、秘密警察の秘密連絡員(TW: tajny wspolpracownik)であったとされる人物である)。
これは、ジェチポスポリタ紙の論説員(publicysta)を務めるブロニスワフ・ヴィルトステイン(Bronislaw Wildstein)がIPN院長であったレオン・キェレス(Leon Kieres)の合意を取り付けた上で、IPN外部に持ち出し、2005年春、一般公開に踏み切ったものである。なお、おそらく、ヴィルトステインが持ち出したのは、名簿のみであり、文書そのものは入手していないものと思われる。当時、両者は、ルストラツェ裁判を活性化して、「過去の汚点」を明らかにしていくべきだとの見解を持っていたとされる。


しかし、ふたを開けてみれば、同名簿の開示によって、ポーランド社会にそれほどの大きな衝撃は走らなかった。その理由は、第I部でも述べたように、共産主義時代には、秘密警察の組織が強大であり、とりわけ、能力が高く社会的地位の高かった人ほど、その協力網に深く取り込まれていたからであると思われる。
当然、共産党の後進政党である民主左翼連合(SLD)はヴィルトステイン・リストに否定的な見解を示し、議会第二党にして、知識階層の間で支持率が高い市民プラットフォーム(PO)も中立的な立場を取り、同リストの公開を手放しで賞賛したのは、どちらかと言えば、いわゆる「負け組」の人々の間で支持が高い現政権党である法と正義(PiS)や反ユダヤ主義を標榜するラジオ・マリヤなどの勢力であった。
2005年にCBOSが行った大規模な世論調査でも、「ヴィルトステイン・リストの公開を評価するか?」との問いに対して、肯定派は50%であった。やはり、ルストラツェ裁判のようなものを本格的に始めることには、抵抗を感じるポーランド人も多いことが垣間見れる数字である。


それでは、ヴィルトステイン・リストに載っている人物で、「札付きのワル」と目されるのは、どんな人間なのだろうか。ちょうど、ニューズウィークPL版7月16日号にその好例と思われるような事件が取り上げられている。
それは、ヴィルトステイン・リスト(BU 0021 53/14とBU 0021 52/95)にも名前が見えるエミン・ヤサリ(Emin Jasari)のケースだ。
なお、BUは、情報公開・資料整理局(BUiAD: Biuro Udostepniania i Archiwizacji Danych)を意味し、その次の二桁のゼロは「極秘資料」あるいは「TW: 秘密協力者」を現すものと考えられている(ヤサリの名前を記したリスト原文は以下のサイト参照)。

http://lista-wildsteina.n8.pl/j/ja.html

ヤサリは、国際的に知られたパスポート偽造犯である。旧ユーゴのマケドニア生まれのヤサリは、最近までアルバニアの秘密警察に所属しており、1976年、ポーランドの滞在許可を取得し、当時のポーランド秘密警察と接触を開始したとされている。
体制転換後の1994年、公文書偽造罪で2回逮捕された後、保釈金と引き換えにシャバに出た彼は、米国へと飛び、フロリダのパーム・ビーチを拠点に盗難車の販売業に手を染めた。1997年、Hans Werner Fromme名義の偽造ドイツ旅券を使って再びポーランド入りし、当地で悪名高いプルシュクフ一味(本ブログ2005年1月21日参照)と組んで、パスポート、ビザ、各種登録証書の偽造を大規模に行っていたものが、2000年10月にポーランド官憲によって再逮捕された。


ところが、ヤサリをめぐっては、同時に、米国がインターポールを通じて犯罪者引渡し(ekstradycja)を求めてきたことから、ポーランド政府はこれを受理し(最低15年の刑期を課し、ポーランドでの余罪についても追求することが条件とされた)、ヤサリの身柄は米国へと送られた。ヤサリは、2003年4月に2年間の服役を言い渡されるも、なぜか3ヵ月後には出獄を許され、ブダペストへ飛んでいる。その際、FBIとの間に何らかの司法取引が成立したことは明らかだと推測される。


やがて、懲りない彼は、再度のポーランド入りを果たし、今度は、ポーランド旅券、ドイツの滞在許可証、米国行きビザの偽造業をワルシャワのモコトフ地区にて再開していた。しかし、そんな彼も今年6月に再々逮捕され、ヤサリが米国で服役中にポーランド女性と結婚し、偽名を巧みに使い分けて、2005年11月、当時のクファシニェフスキ大統領からポーランド国籍取得の仮決定(promesa)を受けていたことが判明したため、今回はいよいよポーランドで長期間、服役することになると見られている。


ポーランドを含めたいわゆる旧東側諸国では、現在でも、過去のスパイ大国の系譜を引いて、いろいろと面白い人間が活躍している。
今後とも、報道で興味深い事実が明らかになったときには、折を見て、紹介していきたい。