本紙では今秋に控えたポーランド大統領選を巡る駆け引きを積極的に発信していきたい。3月18日付のガゼタ・ヴィボルチャ紙には「二人のアンナ、ただし、大統領のアンナは一人だけ」(Anny dwie, prezydentowa jedna)と題し

た特集記事を組んで、現与党である市民プラットフォーム(PO)の大統領候補の座をめぐって争っている二人の有力政治家、シコルスキ外相とコモロフスキ下院議長の夫々の妻にインタビューを行っている。実は、両名とも妻の名がAnnaであり上記のようなルビとなった。しかし、際立っているのは、シコルスキ外相の妻が「シコルスキ夫人」としてではなく、「アンネ・アップルバウム」(英語読みではアン・アプルボーム)と結婚前の姓名で紹介されていることだ。記事では、アップルバウム氏が自らの生い立ちに付いて語っている。早速、試訳文で追ってみよう。

Anne Applebaum:
私の家族はワシントンに在住しています。父は弁護士、母はワシントンのコンテンポラリーアートの画廊で働いています。彼らは(私と違って)政治にもジャーナリズムにも一切関係がありません。私には2人の妹がいます。妹のうち1人はカリフォルニアで弁護士となり、もう一人は最近までフロリダで教育問題関連の研究所で勤務していました。
私はイェール大学の歴史学部(ロシア史を主に専攻)と文学部(仏文学とロシア文学)を卒業しました。両親は私がロシア語を勉強する事に反対でした。彼らはロシアは外国人に対して閉ざされた国だと考えていたのです。しかし、私は後に1984年の夏休みの2ヶ月間、ソ連に行く事になります。ソ連へは学生グループの一員として訪問し、レニングラード(現サンクト・ペテルブルク)で外国人用の学生寮に入りました。日中は授業があり、放課後には自由に街を歩くことが出来ました。とにかく、誰か現地人と知り合いになりたかったのです。レニングラードは灰色の壁と街路に支配され、緑が少なくて、朽ち果てた石造建築が多い印象でした。ロシア人は外国人を怖がっていました。街中で道を尋ねても、すぐに逃げ出されてしまいました。ところで、私は外国語の飲み込みが早く、ロシア語で当時すでに会話をしていました。尤も、「文法的に超完璧」

(superdobrze gramatycznie: ポーランド語でも、日本語の「超〜」に当たるsuper=スーペルという接頭辞が頻繁に用いられる、激安=supertanioなど。)

という訳には行きませんでしたが。結局、私とロシア語で会話してくれたのはヘビメタ・グループのギタリスト、画家、イスラエルに移住したがっているユダヤ人といった社会の周縁部にいる人たちでした。あるユダヤカップルなど結婚宮殿

社会主義国特有の役場に付属している結婚式場のこと。宗教施設で行う結婚式ではなく、結婚宮殿で行う結婚が奨励された。因みに、ポーランドでは現在でも、民法上の結婚のみを希望する場合には、役場付属の結婚宮殿で役場職員立会いの下で式を挙げることが出来る。

での結婚式に私を招待してくれたものです。レニングラードから(西欧までは)列車で戻りました。途中、ウクライナリヴィウ(露:リヴォフ、波:ルヴフ)で列車が停車してしまい、外に出ることが許されました。そこで私はウィチャコフスキ墓地(Cmentarz Lyczakowski)を訪れました。緑が多く、ポーランド人、ドイツ人、ロシア人、ウクライナ人の墓があり、各国語での墓標があるのが印象的でした。私のように、(米国という)安定した国から来た者にとっては、ポーランドで生まれた人がその居住地を変えなかったにも関わらず、後にソ連に住み、更に(ソ連崩壊後には)独立したウクライナベラルーシの住民となっていったことは正に驚愕すべきことなのです。
さて、私の父方の曽祖父はコブリニィ(Kobryn)というロシア帝国領からポーランド領、現在はベラルーシ領となっている町の出です。

ざっくり言って、ベラルーシウクライナの西半分は伝統的にはポーランド領に属し、ポーランド語では、クレースィ(Kresy)=辺境地帯と呼ばれている。ポーランド人がクレースィという単語を聞くと、なにやら失われた過去への郷愁を感じるようだ。小生が勤務するワルシャワ中心部にも「クレーシィ料理」のレストランがあり、伝統的なポーランド田舎料理を堪能することが出来る。http://www.tawernatabaka.pl/

曽祖父はアレクサンドル3世時代の戦争に明け暮れたロシアから逃げ出した若者の集団のうちの一人で、当時のプロシアから船出し、ニューヨークのエリス島を経て、アラバマへと移住しました。アラバマでは小さな靴屋を営んでいたようです。
母方の家族は19世紀の始めにフランスから米国へと渡り、ニューオーリンズに住み着きました。先祖のうちには南北戦争に従軍した者もあったとの事です。
さて、ソ連から帰国後、私はイェールを卒業し、マーシャル奨学金を得て、ロンドン経済大学(LSE)とオックスフォード大学セント・アンソニー校に学びました。その頃はまだ夫であるラデック(シコルスキ外相)とは個人的には知り合っていませんでした。ただ、彼がオックスフォード大でOxford Union Societyに所属し、ポーランド問題のディスカッションを主催していたことは知っていました。後に、古い写真を整理していたところ、偶然にも、私たちが同じ討論会の場に居合わせていたことを知り、大変驚きました。私は、当時付き合っていた別の男性とその場にいたようです。彼は、米国人で、今では米財務省で勤務しているようです。
英国では図書館に篭りっきりで東欧問題に関するドクター論文を執筆していましたが、すぐに飽きてしまい、また世界を見たいと思うようになりました。と言ってもお金のあてがあった訳ではなく、どこかの雑誌に寄稿してお金を稼ぎながら外国暮らしをしようと企てました。早速、ロンドンの複数の新聞社に電話したところ、記事を欲しがったところもありました。当時、オックスフォードの友人だったTimothy Garton Ash等のグループはポーランドの反体制派へと送金をしており、ポーランドチェコスロヴァキアで取材が出来る人材を募集していました。私はポーランド派遣を希望し、複数の活動家へ手渡す資金として500ドルを渡されました。それは当時、大金でした。先ずグダニスクへ行き、ヴロツワフワルシャワと回りました。ソ連ポーランドとの間のコントラストは歴然としており、モスクワでは後年、ペレストロイカが開始された後になってさえもワルシャワほど開放的でなく、人々もよそ者に対して親切ではありませんでした。ポーランドでは当時、連帯に付いても、共産党の政治家に付いても、誰もが恐れることなく話をしていました。ポーランドの反体制派に付いての記事をいくつか書きましたが、最も重要であったのは、ヴロツワフの反体制グループ、「オレンジ色の異論派」(Pomaranczowa Alternative)に付いての記事で、これは英国のエコノミスト誌に掲載されました。こうして私はエコノミスト誌の特派員となったのです。両親は私がオックスフォードでの勉学を放棄して特派員になることには猛反対でした。両親にとってポーランドのイメージとは、政治的に危険で、ストライキ、警察、共産主義、街頭での騒動にまみれた国であるとの認識でした。それは1988年の事でした。私はポーランドには1年、長くても2年間いるだけだと両親に話したものです。それが、結局、ずっと居つく事になってしまいました。食べ物にはいつも困っていました。と言うのも、私は月に100ドルの稿料のみで暮らしていた事に加え、そもそも行列に並ぶ時間がなかったので食料を買えなかったのです。朝にはトウモロコシで出来たクラッカーを食べ、その他には乾パンを食べていました。毎日、反体制派が出していたマゾフシェ週報(Tygodnik Mazowsze)を求めて友人の間を奔走していました。それで私は何が起こっているか知ったのです。聖マルチン協会へと出かけて行き、反体制派の大物だったヴイェツ、ミフニク、クーロン、モチュルスキ等にインタビューをしました。ワレサとも会談を行う機会がありました。

始めのころは通訳を同伴しましたが、後には、ロシア語とポーランド語のごたまぜで自らインタビューを行うようになりました。私はポーランド語を3ヶ月間で習得してしまいました。新聞を読む事によって言語を学んだため、経済や農業問題についての話が出来たにも拘らず、「石鹸」という単語を知らない有様でしたが。(共産党のスポークスマンとして話術に長けていた)イェジ・ウルバンの会見にももちろん出かけて行きました。時の首相であったミェチスワフ・ラコフスキとも会見を行いましたが、彼は、ポーランドにも民主主義の時代が訪れるが、それは、連帯のない民主主義であり、複数政党制のない民主主義になるだろうと語りました。(私の解釈に拠れば)したがって、当時既に現在ロシアで見られるような「制御」され、どこか「操作」された民主主義という考え方があった事になります。その後、戦後初の制限付き自由選挙がありました。投票当日、私はある連帯活動家にインタビューしていましたが、(反体制派の)誰もが選挙に負けるのではないかと気を揉んでいました。共産党は社会の中で受け入れられており、連帯には目がないと見られていたのです。ポーランドの将来は大きな混沌の中にありました。今のポーランドを見ていると、最初からこの国には民主主義が根付き、独立を回復することが自明であったかのごとく思われます。しかし、当時は何もかもが予測不能でした。選挙の結果は驚くべきものでした。連帯が勝ち、党が負けたのです。気付いてみるとポーランドは世界中の関心の的となっていました。ワルシャワへとジャーナリストの大群と共産主義の崩壊の瞬間を見たいという旅行者が大挙してやって来ました。

最近、ワシントンに滞在していた折、私がワシントン・ポスト紙に投稿した記事が元でヴァージニア州厚生大臣に電話をすることがありました。彼は電話口で言ったものです、「アンナ・アップルバウム?お互いに知り合いですね。」私は彼のことを何一つ覚えていませんでした。彼は1989年にワルシャワへとやって来て、旧市街広場にあった私の下宿の床で泊まったことがあったと言うのです。あの時は、人ごみの中で皆が眠ったものです。私もどこへでも出かけていって、知り合いの知り合いのところで休みました。ホテルなんてものはなく、あってもとても高く付きました。私のワルシャワの下宿は世界に知れ渡った投宿先となったのです。中二階にベットを持ち込んで急ごしらえの宿泊所としましたが足りず、床には寝袋に寝たり、ぼろきれを敷いただけの上に身を休める旅行者で溢れ返りました。その中にラデック(シコルスキ外相)も居ました。1989年8月のことでしたね。

(その後ラデックと会ったのは)コール首相のワルシャワ訪問に合わせて、ヴィクトリアホテル内にプレスセンターが設置された時でした。ラデックはサンデー・テレグラフ紙の記者としてその場に居ました。ちょうどその夜、ベルリンの壁が崩壊し、コールは急遽、ベルリンへと戻っていきました。ワルシャワに残っている意味はなく、世界中のプレスがベルリンを目指したのと同様、私もラデックとダイハツ車に乗ってベルリンへと向かいました。全く狂喜のときでした。毎日、4本から5本の記事を米国の新聞社に書きまくりました。ある新聞社に1本の記事を書くと、少し内容を修正して2本目の記事をポーランドのインタープレス通信に持って行き、CBSラジオに電話、その後はオーストラリアのラジオ局に電話といった具合でした。私の記事が毎日、世界中の新聞の1面に掲載されたのです!ラデックの記事も同様でした。その年、彼はアフガニスタンアンゴラへ派遣され、クリスマスには(ルーマニアの)ティミショアラからチャウシェスクの最期について報道しました。私は自分の記事がこれからも連日のように世界中の紙面を飾るのだと思いましたが、その後歴史の振り子は止まってしまいました。もうポーランドが世界の注目の的となる事はないでしょう。あのころの雰囲気を懐かしく思うことも少しあります。あのころは本当にすばらしかった。しかし、もうあのころのように働くことも出来ないでしょう。

今でも著述は続けていますし、(ソ連強制収容所を題材とした)「グラーグ」ではピュリッツァー賞を受賞しました。ワシントン・ポスト紙には週一回のペースでエッセイを投稿しています。直近の4年間ではスターリニズムに付いての著作を執筆中です。第二次大戦終結からスターリンの死(1945−1953)までの時期の歴史に付いて、ワルシャワブダペスト、ベルリンから資料を取り寄せています。ドイツ人が残した資料は最も正確ですが、マルクシズムの隠語に満ちていて、翻訳にかけても理解に苦しむ場面が多々あります。他には、米国人共産主義者に付いての短編も最近出版しました。彼等の多くは直接あるいは間接的にソ連のスパイとしても活動をしていました(以上、試訳)。

さて、アン・アプルボームの著作は日本語でも、2006年に白水社より『グラーグ:ソ連集中収容所の歴史』(川上訳、651ページ)として出版されている(以下は、代表的な書評)。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/jaces/V46-2_05.pdf
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2006/10/20061015ddm015070148000c.html
http://www.hakusuisha.co.jp/news/2008/10/post_115.html

他にも、アプルボームを含む戦後中欧の知識人(主として経済学者)の群像に付いて触れた興味深い論考に、佐藤経明の論文『ブルス:「現存した社会主義」経済体制批判における「修正主義』がある。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/jaces/V46-2_02.pdf

実は、アプルボームの自叙伝的なインタビューに加えて、コモロフスキ下院議長の妻アンナのインタビューも訳出しようと思ったのだが、いかんせん、内容が退屈すぎて手が回らなかった。アンナ・コモロフスキ氏は政治家の妻により相応しいと言うのか、良い意味でも悪い意味でも夫を立てる地味だが芯の通った女性といった風情がある。
各種の世論調査、下馬評でも現時点では、与党POの大統領候補としては、コモロフスキ氏が有利な展開を見せている。
しかし、自分個人としては、ポーランドとは縁もゆかりもなかった一米国人女性がひょっこりとこの北の果ての国へとやって来て、外務大臣の妻になってしまったという「真実は小説より奇なり」を地で行くような物語のほうに惹かれてしまうのだが、、、

余談だが、ジェイムズ・A・ミッチェナーの名著、『ポーランド』(上下2巻、文藝春秋、1989年刊)にもポーランド貴族に嫁いでいった米国人女性が歴史の波に翻弄される姿が描かれている。

コモロフスキ下院議長についても、その人となりや豊かな教養に付いては定評がある。本紙でも外相にばかり肩入れしないで、コモロフスキ研究もテーマとして取り上げていきたい。

ポーランドでは今年秋に控えている大統領選挙で現職のカチンスキ大統領が再選なるか、現与党の市民プラットフォームの大統領候補が初当選を果たすのかをめぐって、再び熱い政治の季節を迎えつつある。

さて、政治家について評価を下すことは殊の外難しい作業のようだ。政治家も人の子であり、人生に一つの解など存在しないのと同様、善悪の二元論で単純に理解できるような存在ではないからかもしれない。

3月13日付の高級紙「共和国」新聞には、アンナ・ソブル=シフィデルスカ(Anna Sobor-Swiderska)という歴史家が出版したヤクブ・ベルマン(Jakub Berman: 1901-1984)に関する伝記を痛烈に批判する記事が出ている。
ベルマンは、ワルシャワ大学法学部在学時から共産主義思想に傾倒し、ポーランド共産党(KPP)に入党、39年に独ソ戦開始と同時にソ連占領地入りし、はじめはポーランド人向けの共産主義プロパガンダ紙の編集にかかわり、次いでウファに移ってソ連の意向に忠実なポーランド共産主義者の養成に携わり、大戦末期までにはスターリンの信頼を得ることに成功、ソ連軍と共にポーランドに帰国後は、スターリンの忠実な部下として、秘密警察(UB)及びイデオロギー担当のトップとして多くの政治犯の処刑に深く関わったとされる党政治家である。

当然、ポーランドではベルマンの名前は、悪の象徴として想起されることが多い。共和国紙は、ソブル=シフィデルスカの伝記が、60−70年代にかけて当時既に政界から退いていたベルマンの自宅に仕掛けられた盗聴記録を元に作成された数百ページに上る膨大な報告書という超一級資料を用いていながら、あたかも当時の秘密警察の盗聴意図が68年に起こった3月事件(ユダヤ系知識人の大規模な国外追放キャンペーン。ベルマンはユダヤポーランド人だった)の証拠固めをすることにあったとの事実無根の記述を大量に行うことに終始してしまったと批判している(共和国紙に拠れば、同報告書からは、むしろ「ベルマンのイデオロギー観の変遷が読みとれる」という)。
更に、ソブル・シファデルスカ女史の筆致は、ベルマンが非常に高いファッションセンスと教養を備えていた人物であったというような意外ではあるが「切り抜き記事的な」枝葉の情報にばかりフォーカスしてしまって、肝心要の彼が行ったおぞましい政治抑圧の実態についてはほとんど触れず、憶測だけを頼りに重要な歴史上の新発見でもしたかのような錯覚に陥っていると手厳しい。

しかし、少し離れて、悪の権化としての評価が定まってしまっている政治家の伝記を書こうとする歴史家の心境と、それを卑しくも商業ベースに乗せて販売しようとする出版社の意図とを考え合わせて見ると、何となく、このような形でしか、50年代に活躍したスターリンの子飼いの伝記など今更出版できなかったような気もするのだ。
政治家のイメージは、公の人としての顔と一般人としての顔とが交錯し、それにその個人に様々なチャンネルを通じて関わった人々の記憶や、公式記録との矛盾や乖離などが厚く堆積することにより形成されて行く。ある政治家の真の姿を追おうとする者は、常に五里霧中の中を彷徨しているような気分を味わうことになる。

そんなことを思いながら、大衆紙「ファクト」を開くと、艶やかな黒いローブに包まれたオリヴィア・ウィリアムズ(42歳)の見返り美人姿の隣に、秋の大統領候補として指名される可能性のあるシコルスキ外相(Radoslaw Sikorski: 47歳)が米国人歴史家である妻のアンナ・アップルバウム(Anna Applebaum: 46歳)と共に小さく写っている。見出しには黒々とした大文字で「シコルスキは妻に以前のガールフレンドを見せた」とある。なんだろうと思って読んでみると、シコルスキが妻と共に、今週木曜、ロマン・ポランスキ監督の最新作である「ザ・ゴースト・ライター」を見にワルシャワのとあるシネコンを訪れたとある。以前、シコルスキ自身がプレイボーイ誌(ポーランド版)に語ったところによると、ゴーストライターの主演女優であるオリヴィア・ウィリアムズとは英国滞在中に4年間一緒にいたのだと言う。記事は、結局のところ、シコルスキ夫妻の関係は嫉妬が入り込む余地がない(nie ma miejsca na zazdrosc)ほど良好なので、大臣も平気で昔の女が出ている映画に妻を誘えたのだと結んでいる。

小生もゴーストライターを大変な興奮を持って見たものだが、英国政府内におけるCIAの暗躍を描いた政治サスペンス映画の主人公は、英国の前首相の伝記を執筆するゴーストライターの青年である。
政治家をめぐる物語はいつの時代も尽きることがない。大統領候補選(prewybory)の有力候補とささやかれる男は、政治家の伝記を書かされるゴーストライターの姿に一体何を見たのだろうか。

ワルシャワの中心街、イェロゾリムスキェ通りに大きく掲げられたティーポットから勢いよくほとばしるジャスミン茶の広告が先日、静かに引き降ろされた。今年3月に新規に開設されたLOTポーランド航空によるワルシャワ−ペキン便の就航を祝う壁面広告が外されたのは、他でもない同路線の閉鎖(6月6日に最終便がワルシャワを飛び立つ)によるものである。

このところポーランドでは、建設現場を中心に不足する労働力不足を補うために中国から期限付きの特別団体ビザで大量の単純労働者を入れる動きが活発化するなど、中国との関係強化に官民挙げての取り組みが行われている。中国からの単純労働者の移送後には、必ず、かつての西独が経験したようなガストアルバイターの定住化という問題が生じると思われるが、この問題はここでは触れない。LOTによるペキン便就航は、水面下で緊密化の度合いを高めつつある中波関係を象徴するような出来事だった。

今回の突然のペキン便廃止の背景には、1.集客予測を見誤ったこと、2.シベリア上空の飛行許可が下りなかったこと、の大きく2つの要因を指摘することができる。

1.集客見込み−17日付ジェンニク紙は、ワルシャワ−ペキン便の採算ラインとして週五便の運行と1000−1500人の週当たり乗客数が必要であると主張している(実際には、週450人以下の乗客しか集まらなかったようだ)。さらに、欧州−アジア間の新規路線を就航させるためには、近隣諸国から集客できるようなハブ空港の存在が不可欠であるところ、ワルシャワショパン記念国際空港には、ハブ空港としての機能が備わっていないことも今回の失敗の理由として挙げられている。

2.シベリア上空の飛行拒否−同紙に拠れば、ロシア政府はワルシャワ−ペキン線の開設二日前(!)になって、領空飛行権を認めない旨の回答を出したと言う。これにより、LOT機はロシアを迂回し、トルコ、カフカス諸国上空を飛行せざるを得なくなり、ルフトハンザ、SAS、KLMなどの競合他社と比較してペキンまでの飛行時間が2−3時間も延びる(全行程11−12時間)こととなった。2.の要因が加わることにより、就航直前から同便の採算確保は絶望的となった。

同紙は非公式情報として、今回のペキン線開設失敗のより、LOT社が蒙った損失額は240万ズオチから480万ズオチ(約1億800万円から2億1600万円)ほどと見込まれるとしている。
ポーランド企業が将来、強豪の仲間入りをするためには、国外マーケットへの進出が必要不可欠である。現在までのところ、国外マーケットで成功しているポーランド企業は少なく、むしろ、失敗例、苦戦している例のほうが多く聞かれる(ポーランド企業のFDIについては将来の再論材料としたい)。

LOT社のアジアへの大冒険は、「勉強代」としては高く付いたが、同社にとって将来の戦略を練る上での貴重な経験を残したのかも知れない。

2012年にポーランド・ウクライナ共催で行われるサッカー・ユーロカップまでに906キロの高速道路を建設し、総延長キロを1605キロとするというのが現政権グラバルチク建設相の構想であるが、ポリティカ誌(2008年5月3日号)は特集記事で2012年までには200−300キロの高速道路建設が限界、ポーランド全土の高速道路網建設が終了するのは2020−2030年になるとの大胆な見方を示した。

ポーランドの高速道路で重要なものは3本あって、北の輸出港グダニスクからトルン、ウッジ、南部のカトヴィツェを経由しチェコ国境まで南北を結ぶA1線、首都ワルシャワ西に伸びて行き、ウッジ、ポズナンを経由してドイツ国境まで抜けるA2線、南部の要衝を結びウクライナ国境からドイツ国境まで突き抜けるA4線(ウクライナ国境〜クラクフ〜カトヴィツェ〜ヴロツワフドイツ国境)がこれに該当する(頭文字のAは高速道路=アウトストラーダの略)。
以下、ジェトロが作成、公開している地図を参考に話を進めていこう。

http://www.jetro.go.jp/biz/world/europe/pl/guide/pdf/poland_road_network.pdf

このうち、最も整備が進んでいるのは南部のA4であり、クラクフ〜カトヴィツェ〜ヴロツワフ間が開通しており、更にドイツ国境に程近いクシジョーヴァ(Krzyzowa)という町までは高速で行くことができる。その後、ドイツ国境まで地図上の目視で70キロほどの区間は未開通である。A4が繋ぐポーランド南部地域(シロンスク)は古くから鉱工業が栄えた地域で、既に18世紀には、当時のプロイセンオーストリアから戦争によって奪うなどその経済的価値が大きく評価された地域であった(当時の呼称はシレジア/シレジエン)。現在でも自動車産業をはじめとする外資製造業の立地拠点として重要な地域となっている。
次いで、A2の整備が比較的に進んでおり、ポーランドの中心地に位置していることから製造業・物流拠点として注目を集めているウッジから、西部の要衝ポズナンを経てノーヴィ・トミィシル(Nowy Tomysl)という町までは高速が開通済みであり、ドイツ国境までは100キロほどの未開通区間を残すのみとなっている。ただし、A2はウッジからワルシャワを通って最終的にはベラルーシ国境まで東に伸びていく計画であるところ、ウッジから東の区間については完成のめどが全く立っていない。
最後に最も整備が遅れているのは、南北貫通を目指すA1である。これについては、20キロほどが開通しているに過ぎない。

さて、ポリティカ誌によれば、2012年までに完成の見通しが立っているのは、A1のグダニスクから南に下ったグルジョンツ(Grudziadz)までの区間、その先に日系企業も多く進出しているトルンが控えているのだが、グルジョンツ〜トルン間の開通は一定の可能性があるとの評価、トルンからウッジまでの区間については完成の可能性はゼロとなっている。更に、A2、A4のドイツ国境までの区間についても開通に一定の可能性があるとの評価に留まっている。とりわけ、A2、A4のドイツ国境までの残り区間については、何としても2012年までに完成して欲しいところである。

何故にポーランドの高速道路建設は遅れに遅れるのか?同誌の記事から、その背景を探るとポーランドが国家として抱えている根本的な問題が垣間見えてくる。

政権交代の度に変更される高速道路開発計画

2005年の政権交代(SLDからPiSへ)により、PiS政権は事実上、高速道路の建設入札をストップさせてしまった。前政権(ベルカ政権:04年5月〜05年10月)は短命政権でありながら、A2の建設を100キロ以上も実現させたものの、これを次いだカチンスキ政権の2年間では、A1のグダニスク近郊からシチェフ(Trzew)までの僅か20キロほどが建設されたのみであった。本来であれば、カチンスキ政権の下でA1建設は大いに進展するはずであった。ところが、カチンスキ政権は前政権が建設業者と癒着(ポーランド語ではウクワッド)していたと批判し、A1建設をコンセッション方式(工事を民間業者が請負い、見返りとして、建設後に民間業者が通行料の徴収などの利権=コンセッションを得る方式)で請け負っていたGTC社に対して、グルジョンツからトルンまでの建設許可を取り消すと発表し、法廷で争われた結果、PiS政権側が敗訴するという失態を犯した。
のみならず、A4のクシジョーヴァからドイツ国境までの区間については、環境アセスメントに失敗し、県知事が一部区間について建設許可を出せない状況のままコンセッション方式での工事を開始するなど、実務者の不手際や法律知識の欠如が露呈する結果に終始した(A4のドイツ国境までの区間については区間変更も有り得る)。
それでは、一般に、ビジネス志向が強い現PO政権では抜本的な改善が見られるかと言えば、同誌は否定的な立場に立っている。まず、現政権のグラバルチク(Grabarczyk)建設相がインフラ問題の素人であり、直属のコンサルタントが前政権から変わっていないこと(Piotr Stomma)、A1の建設に先立って、自らの支持基盤であるウッジ周辺のみは高速道路の無料化を主張していることなどが挙げられている。更に、混乱に拍車をかけることが予測されるのは、トラックに課せられる通行証(winiet)の廃止問題、建設費の高騰による将来の通行料の見直し問題である。

高速道路の有料化問題

ポーランドの高速道路には奇妙なことだが有料区間と無料区間がある。無料区間となっているのは国家発注により建設された区間でA2のコニン〜ウッジ区間、A4のヴロツワフ〜カトヴィツェ区間などがこれに当たる。そもそも、前政権(SLD)は、高速道路は課金制としないが、国内を運転する際にはプリペイド制の通行証の購入を義務付けることにより、道路財源の安定化を図ろうと構想していた。同構想では国民の同意を得られないとなるや、SLDはトラック運転手にのみ通行証の購入を義務付けることとした。ところが、これでは、トラックが有料区間を通行する際には二重に課金がされることとなってしまう。辻褄合わせをするために、現状では、通行証を保有しているトラックは有料区間を無料で通行している。上述のように、有料区間の通行料はコンセッション方式で民間業者が徴収することとなっており、国は道路特別会計(KFD: Krajowy Fundusz Drogowy)からトラックが1台有料区間を無料で通行するごとに民間業者に対して補償を行っている。現状が続けば、道路特別会計の破綻は目に見えているので、旧政権はトラック通行証の廃止を検討していた。これを受けて、現政権は、今年6月からは通行証所持の有無にかかわらず、トラックも有料区間では課金することを決定しているが、大量のトラックが有料区間を避けることが予想され、結局、「誰のための高速道路なのか」という声が既に聞かれ始めている。
ここはトラック通行証の廃止に伴う移行期をどう乗り切るかに掛かっていようが、いずれ、数年後にはEUで義務付けられている電子認証方式による高速道路の課金システムが導入されることとなっている。これは日本のETCシステムに似た制度で、各車両に受信機を取り付け、有料高速道を運転した区間を自動認証させることとなる。ポーランドでは手始めにトラックから導入されることとなるが、電子認証システムの詳細についてはまだ詳細が固まっていない模様だ。

通行料の見直し問題

さて、現状で危機的なのは、未完成区間で最も交通量が多くなることが予想されるA2のワルシャワ〜ウッジ間、
A4のウッジ〜カトヴィツェ間の建設のめどがほとんど立っていないことである。
この2区間については、2005年より入札が開始されているが、未だに受注業者が決まっていない。ワルシャワ 〜ウッジ間については、現在、2社のみが交渉の席に残っており、ウッジ〜カトヴィツェ間については6月に実施予定の入札に対して応札業者がゼロとなるのではないかとの危惧が高まっている。原因は、建設相がコンセッション方式を採用した際の乗用車1台あたりの通行料の額について、1キロあたり20グロシ(0.2ズオチ)を超える料金設定を認めていないことにある。このレベルでの通行料収入では、最低でも5年間は掛かる高速道路の工期を考えた際、受注は「自殺行為」となるというのが大方の見方である。すでに、建設相では、A1の既存区間については1キロ当たり27グロシの回答を出しており、新政権が工事を請け負う建設業者に対して、どれだけのレベルを再提示できるかが重要であろう。

高騰する建設費

前政権は、A1建設を請け負っているGTC社に対して1キロ当たり560万ズオチの工賃を認めたが、その後、A4のクラクフからシャルフ(Szarow)までの区間に関しては同1000万〜1100万ズオチの工賃を見込んで契約書に署名を行ったと言う。一部専門家は工賃が同1500万ズオチにまで跳ね上がる可能性についても指摘していると言う。さらに、ポーランドEU加盟に際して移行期間の設置を認められなかった環境アセスメントの実施も、近年、益々、その基準が厳格化しつつあり、高速道路建設のコスト高要因となっている。

結論

高速道路建設の問題を考えると、やはり、ポーランドが体制移行国に属するという事実を改めて想起せずにはいられない。
上記で挙げた問題の根本には、コンセッション方式と言う社会主義時代には到底考えられなかった新制度を導入したものの、なお、その運営に暗中模索を続けている移行国としてのポーランドの一面がクローズアップされると思われる。
機能しない新法、官庁内での組織不全、実務者の不足、目先の利益のみを考えた利権政治、相互協力の欠如、社会に根強く残る相互不信、等々の要因はポーランドに限らず、東欧の旧社会主義国の多くが未だに抱えている典型的な症例である。
ポーランドでは確かに市場経済が機能している。ポーランド人の国民としての資質もむしろ高い方に属する。それを以ってしても、社会全体のコーディネーション能力という、社会主義の半世紀を経て失われてしまったシステムを再構築していくためにはなお、多くの時間が費やされるであろう事を高速道路の事例は如実に物語っているように思われる。

2020年となるのか、あるいは2030年となるのか、ポーランドが高速道路網の整備を終えた時、先進国クラブ入りへの入学試験もパスしたと言えるようになるのかもしれない。

約1年ぶりの暗夜航路となった。今日は再航を記念して、少し大きなテーマについて扱おうと思う。4月28−29日にかけて、ルクセンブルクで開催されたEU外相会議は、将来のセルビアのEU加盟を支持する声明を発表して散会した。しかし、セルビアのEU加盟など既に織り込み済みの事実であり、EU主要国の外相が真に関心を示していたのは、隠されてしまったもう一つの議題の方だった。

それは、停滞するEU-ロシア経済関係の交渉を一挙に前進させる目的で、その交渉権を、EUの中枢機関である欧州委員会に一任してしまおうという提案だった。周知のようにEU加盟国は現在27カ国、その中には旧東欧諸国を中心とした反ロシアの立場を取る国々からドイツ、フランスのように主として自国エネルギー産業の対ロ進出、自国製品の対ロシア市場売り込みなどの経済的な関心から親ロシア的なスタンスを取っている国まで、ロシアをキーワードに見ると全く立場を異にする国々が含まれている。概して西欧諸国とハンガリーは親ロ、その他の新規加盟国は程度の差こそあれ反ロ、分けてもポーランドリトアニアは反ロ路線の急先鋒であると見てよい。
EU外相会議はほとんどの決定事項については、多数決制をとっているのだが、EUの共通外交・防衛政策などでは全会一致を求めている。当然、EU-ロシア経済関係も共通外交政策の範疇に入るわけで、このような場合にのみ、ポーランドリトアニアといった小国が拒否権を発動し、EU全体の動きを止めてしまうということが近年、繰り返されるようになった。今回も当初より拒否権発動を決め込んでいたリトアニアのヴァイティエクーナス(Vaitiekunas)外相を何とか思いとどまらせようと、各国により様々な働きかけが行われたことをポーランドの新聞「共和国」紙は伝えている。

さて、東欧諸国が加盟する以前のEUという機関の面白かったところは、常に「鳴かぬなら鳴かせて見せようホトトギス」的な政策スタンスを取って、手練手管を駆使して、交渉相手の関心を引き、巧く交渉のテーブルに着かせてしまうという見事なまでの外交力にあった。
今回の対ロシア経済交渉にしても然り。そもそもEU(当時はEC)と米国・日本は、1991年の旧ソ連最末期に自国企業による旧ソ連邦の莫大なエネルギー資源への自由なアクセスを目論み、ソ連及び東欧諸国との間に「エネルギー憲章条約」という聞き慣れない条約を締結していた(ただし、米国はオブザーバー参加)。その内容をかいつまんで言えば、「旧ソ連のエネルギー資源の貿易を自由にして、エネルギーの供給に当たっても旧ソ連が如何なる制限をも行うことを阻止し、なお且つ、西側企業がどんどん旧ソ連のエネルギー関連産業に投資できるようにする」という、貿易・投資の自由という「錦の御旗」を前面に押し出しながらも、旧ソ連のエネルギー関連企業への西側による積極投資を暗に狙っていた、ロシア側からすればトンデモ条約であった。
当初こそ、市場経済の早期導入を目指して、同条約にもそそくさと署名を行ったソ連(ロシア)政府であったが、流石にロシア議会は同条約の批准を拒否、同条約は長い間、宙に浮く形となっていた。これに追い討ちをかけるように、最近では、プーチン政権による石油産業からのあからさまな外資締め出し政策もあり、現状ではほぼエネルギー憲章が前進する気配は無い。
EUはロシアのWTO加盟交渉の最中(2006年)に忘れ去られた観のあった同条約を再び持ち出して、ロシアのWTO加盟を阻止しようとしたが、最終的にはロシアのWTO加盟後の対EU関税率の引き下げを約束させて、エネルギー条約をひとまず棚上げとする選択を行った。現在のEU首脳部の対ロシア経済戦略の要諦は、EU製品を大量にロシアに売り込む一方で、益々、対ロ依存度を深めているエネルギーの安定供給を目指して、将来的にはEUとロシアとの間に自由貿易圏の創設を働きかけていくことにある(4月30日付共和国紙)。エネルギー憲章から自由貿易圏創設へと、EUは対ロ経済交渉の軸足を急旋回で移行させつつある。そして、自由貿易圏の創設などという遠大な目的の達成のためには、強大な交渉権を欧州委員会に委託してしまって、欧州委員会とロシア政府との「二国間交渉」で話し合いを前進させることが望ましいシナリオである、、、、、
前書きが長くなって恐縮だが、上記の目論見こそ、今回のルクセンブルク会議に向けて、大半の西欧諸国の外相が胸に秘めていたものであった。
そこへ来て、今回のリトアニアの拒否権発動である。
共和国紙は続けて言う、「ある外交筋は、非公式に以下のように語った。リトアニアはロシアに対して同国にあるマゼイキュウ製油所への原油輸送をストップしないことを求めるようだ。これは要求として理解できるのだが、正直、私にはリトアニアが他にどんな要求をロシアに対して行おうとしているのか皆目見当が付かない。」と。同紙は、リトアニアの対ロ要求事項として、グルジアおよびモルドヴァとの間にロシアが抱えている緊張状態を緩和することが含まれているらしいことを伝えた上で、リトアニアEUに対して兼ねてから、同国ビジネスマンがロシア領内で密かに拘束されているのではないかとの嫌疑について明らかにすること、ならびに、第二次大戦中から戦後にかけてのソ連政府によるリトアニア人強制連行の事実について解明を求めるよう主張していることを紹介している。

このようなリトアニアの要求に対して、西欧諸国が強い嫌悪感を抱いていることは想像に難くない。まず、グルジアに関しては、先のブカレストNATO首脳会談で将来のNATO加盟を支持する声明を行っており、対ロ経済交渉というEU経済的利益が最優先されるべき場で「グルジアカード」を持ち出す事は有り得ない選択であろう(所詮、グルジアの存在など、EU大の利益から見れば、政治的にロシアに対して揺さ振りをかける際の小道具に過ぎない)。その他事項については、これはリトアニアとロシアとの間の二国間関係に留まっている話であり、EUという全体の利益を考えた際に持ち出すべき話題ではないというのが、古くからのEUメンバーである西欧側から見た常識であると思われる。

オーストリアを代表する批評家にして東欧問題にも造詣が深いカール=マルクスガウス(Karl-Markus Gauss)は、ニューズウィークポーランド誌とのインタビューに答えて次のように述べている。

N: 「ポーランドEUの加盟国として求められている欧州らしさというものに欠けているのではないかと、しばしば批判されます。我々の欧州内での位置とは一体どのようなものなのでしょうか。」

G: 「私はここ2,3年において、ポーランドがかつて東側ブロックが崩壊した直後に西欧で受けていたような好意的なイメージを失いつつあるのではないかと感じています。カチンスキ兄弟はEU内におけるポーランドの地位を高めようとしましたが、結果は全く裏目に出てしまったようです。EUの首脳会談が開催されていると言うのに、全体の24カ国がある議題に賛成しているにも関わらず、特定の1カ国、あるいは2カ国でも3カ国でも構いませんが、そんな数の国々が常にものごとを最初から議論し直そうとし、自分たちのためだけに特別なルールを要求するなんて事があるでしょうか。今ではむしろこんな声のほうがよく聞かれますよ。あのポーランド人が何をまた欲しがっているのか。今度は何を彼らに差し出せと言うのか。また、ポーランドでは死刑復活やらホモセクシュアルへの反対意見といったものが聞かれますが(死刑廃止ホモセクシュアルの受容はすでに西欧社会では既定事実となっているので)、これもポーランドと(西欧と)の間の不理解の一因となっています。」

冷戦期には、西欧に対峙する言葉として東欧と言う言葉が存在した。
その後、冷戦の崩壊を経て、かつてオーストリア・ハンガリー帝国が存在していた時代に使用されていた中欧(ミッテル・オイローパ/セントラル・ユーロップ)という言葉が復活し、一時期、もてはやされた。
しかし、最近、再び、「東欧」という言葉をよく耳にするようになった気がする。
そこには、上記でつらつらと述べたようなEU新規加盟国の旧態依然とした世界観・価値観に西欧諸国が辟易し始めた事情が確かに反映しているように思われてならない。

また、これとはまったく別のロジックから東欧と言う言葉を使うこともある。それは、特に日本などから同地域に投資を考える際、中欧という言葉を使用すると投資対象国がかなり限定されしまい、詮索されやすいという特殊事情から来るものである。もはや、遠い日本からルーマニアブルガリアウクライナ、ロシアといったバルカン諸国、旧ソ連諸国への投資が単なる立地調査段階の域を超えつつある昨今、「東欧進出」という言葉でオブラートに包める地理的範囲もそれだけ広がりつつある。

様々な思惑を背負いつつ、消え去ろうとしない「東欧」という言葉に、きっと、これからも人々はいろいろな思いを重ねていくのだ。

ポーランド―ウクライナの国境地帯に流れるブク川を巡っては、「ブク川の向こうの同胞」(Rodzacy za Bugiem)という言葉がある。これは、同国の長い対ロシア蜂起の歴史の中でシベリアに追放されたポーランド人や旧ポーランド領であった現在のリトアニアやベラルーシ、ウクライナ西部といった地域に戦後も踏みとどまったポーランド系住民を指す言葉である。

2004年のEU加盟後、ポーランドから英国、アイルランド等のいち早く旧東欧諸国に対して労働市場を開放したEU諸国への移民が急増し、一部地域では労働者不足が深刻化し始めている。労働力不足を解決する切り札としてポーランド政府が期待を寄せているのが、彼ら、「ブク川の向こうの同胞」の存在だ。

6月12日、ポーランド下院において「ポーランド人カード法」(Ustawa o Karcie Polaka)の審議が開始された。法案によれば、カードの保有者にはポーランドビザの取得は依然義務付けられるものの、マルチプル入国ビザの発給を受けられ、ポーランド国鉄にも割引料金で乗車ができ、ポーランドへの移住や同国での合法的な就労も可能となる。6月12日付けジェンニク紙によれば、カードの発給対象となるのは旧ソ連諸国在住のポーランド系住民200万人で、ベラルーシを例に取ると、近くポーランドでも導入が見込まれるEU共通ビザ(シェンゲンビザ)の申請料にあたる65ユーロ(月当たりの平均年金受給額に相当)が免除され、従来どおり、カード保有者のみ無料でのビザ発給が受けられるようになるなど、影響は大きい。
問題は、誰を「ポーランド人」として認めるかであるが、法案によれば、カード申請者は領事の立会いの下に、「自分がポーランド人であると感じている」と宣誓を行うほか、事実関係を証明する書類としてソ連時代のパスポート(民族名が明記されていた)等の提出を義務付けられる。
さらに、ポーランドの出自を証明する書類が何も無い場合には、旧ソ連の各地に点在しているポーランド人組織がその個人の「ポーランド系」としての身柄を保証する文書を発行すれば良いことになっている。
こうなってくると、ポーランドとは縁もゆかりも無い人物でもカードの取得ができる余地が残されるように思われる。
すでに日本では、日系ブラジル人が地方都市の工場で重要な労働力となって久しいが、同様の政策をポーランド政府も採ろうとしているように見受けられる。
実は、ポーランドではすでに都市部を中心として、相当数の東側からの不法移民が家事労働者、建設労働者などとして就労している。
西側へと出稼ぎに出たまま帰らない「同胞」の間隙を埋める形で東側からポーランドでの「高賃金」を求めて流入する新たな「同胞」の流れを合法的に管理、促進して行くという政策機運がようやく実現しつつある。

さて、これが東側からの貧しい移民を労働者として受け入れる政策であるとするならば、外国投資庁(PAIiIZ)が旗振り役となっている「ポーランド系コミュニティーのためのビジネスセンター」(Centrum Biznesu Polonijnego)の立ち上げは、西側、主として米国に渡ったポーランド系住民をターゲットとして、祖国に投資を行ってもらおうとする動きである。
以下、編集中です。